2.バローロの偉大な造り手 カッペッラーノ
――“Atlante delle vigne di Langa”(Slow Food Editore,2000)

 アルバ地方のワインの歴史で、ジュゼッペ・カッペッラーノ(1870~1955)は20世紀前半を代表するワインの造り手の一人として語り継がれている。だが、非凡な薬剤師として能力を発揮し、バローロ・キナートも考案した彼が、ワインの世界に入ったきっかけは、同様に優れた企業家であった兄のジョヴァンニ(1868~1912)が急逝したためであったことは、ほとんど知られていない。


 ジュゼッペとジョヴァンニの父親、フィリッポ・カッペッラーノは公証人の家系に生まれ、自身もこの職業に就いていた。フィリッポは1870年、48歳のときに大きな投資をして約60ヘクタールの畑を購入し、ブドウ栽培とワイン醸造を行うカッペッラーノ社を創立する。1886年にフィリッポが亡くなったとき、その頃の慣習に従い、二人の娘は一人当たり10万リラという、19世紀末当時では莫大な遺産金を受け取った。二人の息子のうち、弟のジュゼッペは学業を続けたが、19歳になったばかりの兄ジョヴァンニは、ワイナリーを継ぐために大学を中退せざるを得なくなった。

 ジョヴァンニが数年のうちにアルバのワイナリーを改築したばかりか、2軒のホテルをアルバとセッラルンガで開業し、ランゲ地方を訪れるようになった観光客を最高のサーヴィスで満足させたことからも、彼の企業家精神と優れた経営手腕が推し量られる。また、セッラルンガではブドウの品質管理を導入し、アルバの鉄道駅までの馬車の運行を開始した。生産したワインは自社経営のホテルでも利用したが、リグーリア州とピエモンテ州の大部分の地域にも多くの上得意をもっていた。1889年には、フランス革命100周年記念で建設されたエッフェル塔をシンボルにパリ万博が開催され、カッペッラーノ社のワインは銅賞を獲得する。その後もジョヴァンニはワイン造りにますます果敢に取り組み、数々の賞やメダルに輝いた。

 勉学を続けていた弟のジュゼッペは薬学科を優秀な成績で卒業し、トリノで別の仕事に短期間就いた後、薬学の知識をワインに生かした製品開発に携わることを決意する。グレープゼリーや薬用濃縮マストなどと共に、ジュゼッペがこの頃に考案した製品の一つが、イタリアワインの歴史に残るバローロ・キナートである。「ワイン薬剤師」が生み出した伝説的なリキュール、バローロ・キナートは、取り残されたような暮らしをしていたランゲ地方の貧しい農民たちから、滋養強壮によく効く唯一の家庭常備薬として長い間親しまれ続けた。


 しかし、薬剤師としてのジュゼッペ・カッペッラーノの活躍はほどなくして終わりを告げることとなった。若くして急逝した兄ジョヴァンニに代わってワイナリーを経営するために呼び戻されたためだ。フィロキセラに強い苗木を探しに出かけたチュニジアで罹った熱帯性の病気が原因で、ジョヴァンニは1912年に死んでしまったのだ。こうしてジュゼッペは、父親が創立し、兄が盛り立てたワイナリーの経営を継ぐことになった。

 経営者となったジュゼッペは、トリノの上流階級に知己を得ていたことや、ミラフィオーレ伯爵と親しかったことに助けられ、会社をさらに発展させていく。当時のカッペッラーノ社はランゲ地方の偉大な銘柄や有名になっていたバローロ・キナートの生産に加え、各地でさらなる評価を得るために精力的に事業展開していた。その頃、ジュゼッペの一人娘、マリアがスペイン風邪で亡くなり、この悲劇が彼の心と性格に決して癒されることのない傷を残す。セッラルンガのマリア・カッペッラーノ広場は、娘の思い出のよすがとしてジュゼッペが建設し、市に寄贈したものだ。


 この地方のブドウの「父」でもあり、その大部分を買い取っていた「ぶっきらぼうな紳士」を覚えているセッラルンガの老人たちは、その後のカッペッラーノ社の様子を今でも語り草にしている。カッペッラーノがカネッリのガンチャ社と契約を結び、「ミラフィオーレ」ブランドのハイクオリティ・ワイン醸造を委託されたことにより、同社のブドウ購入量はこの地域で最高となった。醸造を外部に依頼していたのはガンチャ社だけではなく、ピエモンテでは有名ワイナリーがこうしたことを普通に行っていたのだ。カッペッラーノ社が購入するブドウの量が莫大であったため、収穫時期になるとワイナリーの前に荷車が果てしなく列をなす光景が、よく見られたものだった。

 カッペッラーノが買い上げてくれるというだけで栽培家にとっては大きなメリットがあったので、ジュゼッペは値段の交渉をする必要すらなかった。カッペッラーノは批判をはさむ余地のないブドウ品質の正当なランク付けを定めていたが、支払いを受ける段になると、栽培家たちはこれを確かめようと、時には間違えながらもあれこれ比較をしていたものだった。だがジュゼッペは、最良の畑はどこか、バローロ用ネッビオーロの栽培に意欲的な栽培家は誰か、また、気候の影響など、ブドウの品質について熟知していた。ジュゼッペの知識の深さは広く認められており、今日でも多くの栽培家たちにとって、カッペッラーノにブドウを売った、という事実は品質の証として捉えられている。

 1955年にジュゼッペが亡くなり、広大な所有地が孫たちに遺された。その後、紆余曲折を経て、遺産分割は避けられなかったが、ジュゼッペ・カッペッラーノのブランドと誇り高いワイン造りの精神は今でも二人の曾孫に受け継がれている。

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