Salvo Foti、語る
―― 日本でのインタビューより ――
2009年6月
宮嶋 勲

 

 今年ヴィーニタリーの会場で、5月にサルヴォ・フォーティが来日すると、合田さんと塚原さんから聞いた時は驚いた。サルヴォは、エトナからパキーノに至るシチリア島東部からほとんど外に出ないし、顧問先のベナンティで会っても、「ワインがぼくの代わりに語ってくれるから、ぼくはなにも話すことはない」とほほ笑んでいるだけの無口な男。その彼が遠い日本にどんなメッセージを持ってくるのか、私は大いに興味をかき立てられた。今回の来日では3日間通訳としてサルヴォに同行したが、エトナへの熱き思い、自らのブドウ栽培、ワイン造りの哲学を、シチリアにいる時よりはるかに雄弁に、情熱をこめて話していたのが印象的だった。今、イタリアワイン界は、エトナワイン・ブームで、ここ数年でシチリアの有力な生産者のほとんどが畑をエトナに購入した。一般には無名だが「知る人ぞ知るコンサルタント」だったサルヴォも、「エトナを知り尽くした男」として一気に注目される有名人となった。でも彼は全く変わっていない。「自分が30年間やってきたことを今も淡々とおこなっているだけ。私は1ミリたりともぶれていない。世の中の流行が変わっただけ。10年前には私のやり方を時代遅れだと馬鹿にしていた人たちが、今は私を絶賛している」と、話すサルヴォ。それでは、それでは彼が30年間おこなっていたことは、なになのか、インタヴューすることができた。

 

 サルヴォ・フォーティは1962年にエトナで生まれた。祖父は農夫でエトナに小さな農園を所有、自らの畑を耕す以外に、小麦、果実の収穫、ブドウの剪定など様々なアルバイトをしていたが、生活は決して楽ではなかった。時代はまさに高度成長期で、社会は工業化に走り、農業は若者に見捨てられつつあった。サルヴォの両親も農業を継がずに、スイスに移民した。ただ3歳だったサルヴォは祖父、祖母とエトナに残された。金銭的には貧しいが、豊かな自然と伝統に囲まれた幼年期の農村生活はサルヴォに強い印象を与えた。ワインに初めて触れたのもこの時代である。「祖父はパルメントと呼ばれるエトナ独自の醸造設備で、自家消費用ワインを造っていた。祖父のワインは赤というよりもロゼに近いもので、黒ブドウと白ブドウを一緒に発酵させて造ったものだった。出来たてのワインは、野性のイチゴの香りがして本当素晴らしかった。子供ながらも私はすぐに魅了された。祖父はワインを600リットルの樽に入れて保存していたが、収穫翌年の夏にはもう酸化しはじめていた。でも、秋になればまた新しいワインができるから問題はなかったんだ。子供には水で割ったワインにパンを浸して食べさせる習慣があったから、私も最初はそうしてワインの味を覚えていった」と、サルヴォは懐かしむ。サルヴォが8歳の時に両親は帰国し、父はパスタ会社に勤めた。一家はカターニアで暮らし始めるが、エトナでの暮らしが大好きになっていたサルヴォは町での暮らしに馴染めなかった。「暇があれば祖父のところに遊びに行っていた。田舎の暮らしを懐かしんでカターニアでウサギを飼ったんだが、臭いがくさいと皆に嫌がられたものだ」。 中学を卒業したサルヴォは、農業学校に進むが、周りは皆が反対したそうだ。「当時は農業のイメージはとても悪く、若者は工業学校に行きたがった」 最初の2年は基礎農業を学び、次の4年間はブドウ栽培と醸造を学んだ。「当時は世の中のワインに関する関心は低く、私のブドウ栽培・醸造クラスには13人の生徒しかいなかったが、その中でもワインの仕事についたのは私だけだった」
 学生時代で鮮明に記憶に残っているのは、毎年夏にカターニアのワイン仲買人と一緒にトラックで農家を回りワインを買いつけたことだ。ドメニコ・アランチョという名のこの仲買人は、農家から買ったワインをビン詰め業者に売ったり、オステリアに売ったりしていた。善良な男で、13歳のサルヴォをとても可愛がってくれた。「子供の時からワインに魅せられていたぼくは、彼の手伝いをできることにとても満足だった。お金はもらえなかったが、食事は食べさせてもらえたし、プレゼントも時々もらった。ドメニコは人が良かったので、ワインの量をごまかされたり、悪いワインをつかまされそうになったりしていたが、そんな時はぼくが助言して助けてあげた」とか。サルヴォは、かなり機敏な子供だったようだ。ドメニコとは7,8年にわたり毎年一緒にワイン産地を回ったが、これはサルヴォにとって貴重な体験だった。「エトナが中心だったが、この時代のエトナはまだブドウ畑が多かった。ドメニコと一緒に回ることで、エトナのすべての村、すべての区画を知ることができた。当時は石膏で樽を封印するのが普通だったが、ワインを購入して石膏の栓を樽から外す瞬間が大好きだった。素晴らしい香りが溢れ出てくるんだ」 パキーノにも買い付けに行ったが、そんな時は未明にカターニア出発した。「そして夜カターニアに帰ってくると、ドメニコは、簡単なつまみでワインを飲ませる店に行った。ぼくはそんな店の雰囲気が大好きだった」 当時シチリア島南東部で造られる赤ワインは、「パキーノ」と呼ばれていて、誰もそのワインがネーロ・ダヴォラという品種で造られていることは知らなかった。当時からパキーノのワインは色が濃くて、アルコール度数が15度か16度あったそうだ。「ドメニコは買い付けたワインで樽を満タンにせずに、必ず4分の1ほど残していた。実はそこに水を入れて、薄めて売っていたんだ。それでも、十分濃いワインだったから苦情もなかった。そして、そのパキーノを売りきってしまうと、樽を洗わずにマルサラに行って白ワインをその樽に入れてもらい、ほのかに赤色がついたワインを、ロゼワインとして売っていた。面白い時代だったよ」 サルヴォがこの古き良き全盛期のエトナとパキーノのブドウ栽培、ワイン造りを直接知ったことは非常に重要だと思われる。たとえサルヴォがどれほどワインに興味を持っていたとしても、彼が学校を卒業してから産地を訪問し始めていたのでは、全盛期の伝統を身近に知るには遅すぎただろうから。
 学生時代のもう一つの年間行事はエトナの収穫に参加することだった。「ワイン造りの現場の雰囲気が好きなんだ。学校は9月に始まったが、僕はいつも収穫を終えて、10月から学校に行っていた。だから前期の成績が悪かったが、後期で回復した。栽培、醸造は大好きだったから勉強は苦にならなかったよ」。 ちなみにサルヴォは首席卒業である。「当時のエトナはブドウ畑でおおわれていた。この30年で3分の2以上が見捨てられた。年老いた農夫の死後その後を継ぐ人がいなかったり、火事で焼けてそのまま見捨てられた畑も多くあった」。
 1981年に栽培・醸造学校卒業したサルヴォは、いくつかのワイナリーを手伝ったが、安定的で良いワインの仕事はそれほどなかった。1984年から1986年までエトネア・ヴィーニで、1986年にはアグリジェント近くのナーロ村の生産者で、1988年から1990年まではアヴィデで、1991年にはドンナフガータで働いたりして、いろいろな経験を積んだ。
そのころサルヴォにとって非常に重要な出会いがあった。1988年にジュゼッペ・ベナンティと知り合ったことである。目薬の会社で大成功を収めた実業家ベナンティは、ワインを造りたがっていた。サルヴォは以前から温めていたエトナ・プロジェクトを提案した。それは、エトナの異なる地区に畑を所有してそれぞれのテロワールを表現するワインを造る、という革新的プロジェクトだった。 エトナの生産者は、それぞれのワイナリーの所在地の近くに畑を所有し、その村のブドウだけでワインと造っていたし、それは今も基本的に変わっていない。「エトナは広大に地域だから、ブルゴーニュのように、一人の生産者が、各区画の異なるテロワールのブドウでワインを造れば面白いだろうと考えた。ベナンティがこのプロジェクトに興味を示してからは、それぞれの村にバケツを置いて、雨量を計測したりした。相当おかしい男と思われていたよ」。 最終的にベナンティは各地区に畑を買うより、ブドウを購入することを選んだが、エトナ北部(ロヴィテッロ)、エトナ東部(ピエトラマリーナ)、エトナ南西部(セッラ・デッラ・コンテッサ)のテロワールを見事に表現するワインを造り、世に知らしめてきた。「ベナンティは最初エトナ北部のカスティリオーニ村ヴェルツェッラ地区に畑を購入。それ以外はブドウを買うことを選んだので、ぼくは昔から知っている農夫に声をかけた。当時ブドウを売って生活していくことはとても難しく、ブドウ栽培をやめようとしていた農夫が多くいたが、ぼくは彼らに通常の2倍の値段を保証して、伝統的ブドウ栽培を続けてもらった」。 ピエトラマリーナやロヴィテッロはファースト・ヴィンテージである1991以降、このようにして買い付けたブドウで造られている。「1994年にこの二つのワインがリリースされたときは大騒ぎだった。当時あった数少ないエトナワイン(ムルゴなど)の3倍の価格でリリースしたものだから、ヴィーニタリーで酷いバッシングにあった」。 カッリカンテは酸が多く長期熟成させる必要があると考えて3年待ってリリースしたピエトラマリーナは、当時半年後にリリースする白ワインしか知らなかったイタリアでは理解されず、「売れ残りのワインを売っているのか」と罵られ、価格に対しては「こんなワインをよくこんなに高い価格で売れるものだ」と嘲笑われた。「実際にこれらのワインは、洗練された味覚をもった消費者を必要とする特殊なワインで、まだ時代が早すぎたのかもしれない」とサルヴォ。ベナンティが長年にわたりエトナの偉大さを伝える唯一の生産者であったことを疑う人はいないだろう。経済的に余裕があるベナンティ社はサルヴォにとっても素晴らしい実験場であった。1993年には半ヘクタールばかりシャルドネを植樹(エデルミオ)、カベルネも試してみた(パキーノのネーロ・ダヴォラ、エトナのネレッロ・マスカレーゼとブレンドしてアモレミオ)。1998年には醸造所裏にあるセッラ・デッラ・コンテッサの畑を購入、エトナ北部のロヴィテッロ、南西部のセッラ・デッラ・コンテッサというエトナの赤ワイン2大テロワールを代表する両横綱が揃った。この時代のサルヴォはベナンティの仕事に集中し、長年の夢であったエトナの各テロワールを表現するワインという夢を実現させていく。アントシアニンが少なくタンニンが多いネレッロ・マスカレーゼの醸造に適した、果帽とマストの接触面積が広い高さ2m、幅2mというステンレス発酵タンクも特注し、赤ワイン熟成のためのバリック使用も始めた。ベナンティの醸造設備は、立派なものであるだけでなく、生産量にたいして十二分に余裕があったので、小さな生産者に醸造設備を貸せばどうかとサルヴォは助言した。そうすれば意欲的な生産者が生まれる手助けになるだけでなく、ベナンティ社にとってもあなどれない副収入となるからだ。ベタンティ社で醸造設備を借りてワイン造りを始めた生産者には、ハンス・ゼネール、ヴァルチェラーザ、ビオンディ、グルフィ、マルコ・ディ・グラツィアなど錚々たる生産者がいる。そしてその多くはサルヴォに栽培、醸造に関しての助言を求めた。最初は善意でアドヴァイスしていたが、時間を取られるようになってきたので、本格的にコンサルタント業を始めることにした。2000年前後の話である。
 また、1998年にはグルフィのプロジェクトが始まった。キアラモンテ・グルフィ村出身で、ミラノで成功を収めたヴィート・カターニアは故郷でワインを造りたくなり、サルヴォに助けを求めた。サルヴォはネーロ・ダヴォラにこだわるヴィートの希望に従い、ネーロ・ダヴォラの故郷であるパキーノに老木の有名な単一畑4つを含む50ヘクタールを購入させる。グルフィの強い個性をもったワインが、ネーロ・ダヴォラ・ルネッサンスの一翼を担ったことは記憶に新しい。サルヴォは今もグルフィの栽培、醸造コンサルタントである。
 1998年は、サルヴォが初めて畑を買った年でもあった。カスティリオーネ村カルデラーラ地区にあるブドウ畑は、「祖父が剪定のアルバイトをしていた畑で、祖父はいつか自分で買いたいと話していた」。0.2ヘクタールブドウ畑から、2001ヴィンテージに初めて1バリックのエトナ・ロッソを造った。「ビン詰めするつもりはなかったが、配給業者プロポスタ・ヴィーニの強い勧めで300本をビン詰めして、ヴィヌペトラ(シチリア方言で石のワイン)と名付けた。今は畑を増やしたので、2000-2500本の生産量になった」。
 自分の畑を購入してみて、サルヴォはエトナの伝統的ブドウ栽培をする人がいなくなっていることに気づき、重大な危機感を抱く。「真のエトナワインとは、エトナのテロワール、エトナの土着品種、エトナの栽培文化が結合したワインだ。エトナには2,000年以上にわたり築き上げられてきた、アルベレッロによる伝統的ブドウ栽培がある。ただ、コストがかかるので、安上がりな垣根式に押されてアルベレッロは徐々に姿を消し、その栽培に熟練していた農夫も仕事がなくなり、転職せざるを得なくなっていた」。 このままでは、伝統が途絶えてしまうとの危機感をサルヴォは持った。そして、この伝統を守る栽培職人集団イ・ヴィネーリを結成することを決意する。「伝統的栽培法はその技術の継承を一度途絶えさせると、簡単に職人を養成することができない。イ・ヴィニェーリのメンバーは平均年齢30歳と若いが、先輩から技術を教えてもらい次の世代に伝えていく使命を持っている」 現在イ・ヴィニェーリは20人の職人を抱え、アルベレッロによる栽培の派遣請負をしている。シチリア島東部を中心にマルヴァジーアによる甘口ワインで有名なリパリ島、ジビッボ(モスカート)の甘口ワインで有名なパンテッレリア島でも仕事をしている。「とても嬉しいのは、アルベレッロ畑での仕事がなくなり、外国に移民しようとしていた農夫が、イ・ヴィニェーリのおかげでエトナに残ってくれたこと」と、サルヴォ。偉大なワインを語る時に、テロワール、品種について語る生産者は多いが、ある産地に長年にわたり引き継がれてきた栽培文化について語る生産者はまだ少ない。「エトナでは、石垣を積んで段々畑をつくり、アルベレッロでブドウを栽培するということが2,000年以上おこなわわれてきた。それには理由があるはずだ。現在私たちは様々な知識を持っているが、それを伝統を破壊するために使うのではなく、伝統をよりよく理解し、改良するためにつかうべきだ。外部からエトナに進出して来た生産者のなかには、コストを下げるために、段々畑を壊して垣根式植樹を行う人がいるが、とんでもない。エトナは雨が多い地方だから、段々畑により排水をよくし、湿気がたまらないようにする必要があることを、昔の人は経験的に良く知っていた。垣根式仕立ての畑はブドウの品質が悪いだけでなく、しばしば病害にやられている」。
 イ・ヴィニェーリに栽培を頼んでいるワイナリーの醸造は、すべてサルヴォがコンサルタントをしている。そのなかでも重要なのは有名な音楽バンド、シンプリー・レッドのヴォーカル、ミック・ハックネルが所有するイル・カンタンテである。「2000年に始めたプロジェクトで、ミックの豊富な資金があるので、飲みごろになるまでゆっくりワインを熟成させてから、リリースできる」と、サルヴォも大満足。カスティリオーネ村に畑を所有していて、来年ランダッツォ村に醸造所を建設する予定である。イル・カンタンテも典型的な例だが、サルヴォがコンサルタントをしているワイナリーは、すべてプロジェクトの段階から、サルヴォが総合的にコンサルタントをしているものである。ブドウ畑の購入もサルヴォが紹介したケースがほとんどである。「私は自分が完全にコミットメントできる場合しかコンサルタントしない。その土地を知り、その土地の空気を完全に自分のものと感じることができない場合は断っている」。 バジリカータ州のヴルトレ地区、トスカーナ州などからもコンサルタントの依頼があるが、どれも断ったそうだ。「ぼくには年に4、5回ワイナリー顔を出して、ワインを試飲し、コンサルタントするということができない。ぼくは土に触れて、自分で耕作したい。畑で働いている農夫と直接触れ合う必要があるんだ。部品ではなく、完全な存在でありたい。分業を批判するわけではないが、私には向いてない。これはぼくの限界かもしれないが、ぼくにはこの生き方しかできないんだ」。
 将来の抱負を尋ねてもサルヴォは「今までしてきたことを続けるだけ」と、そっけない。ただ、イ・ヴィニェーリのプロジェクトには相当な思いがあるようで、「エトナは他のシチリアとは全く異なる特殊なテロワール。特殊かつ多様な火山性土壌、冷涼な気候、昼夜の激しい温度差、海の影響、そしてアルベレッロによる老木というブドウ栽培の伝統と文化がある。長年かけて築きあげられたその土地ならではの栽培文化はすぐにはできない。伝統が失われる直前に、エトナの栽培文化をかろうじて救うことができた。イタリアの他の地方では失われてしまった場合も多い。栽培文化は1世代ではできない。何世代もの経験で築き上げるものだ。だからそれは一つの文明なんだ」と、エトナについて話し出すと話は尽きない。「人間が偉大なワインを造るのではなく、テロワールが造る。人間は神ではない。父や祖父が教えてくれたのは、畑は私たちのものではなく、人間は畑を一時的に管理させてもらっているだけだということ。先祖から子孫へちゃんとした状態で畑を引き渡していく必要があるから、土地を必要以上に搾取して消耗させてはならない」と、持続可能な農業にもこだわっている。「エトナでワインを造るということは、畑を守り、栽培、ワイン造りの伝統を守っていくことだし、本物のエトナワインを飲むことは、グラスを通してエトナの2000年の歴史を生きることでもある。偉大なフランス料理、京料理を食べることはその土地で何世紀にもわたって築き上げられてきた文化、歴史を生きることだろう。喉が渇いた時に飲むコカコーラは美味しくても、それ以外になにも感じさせない。そんな清涼飲料水のようなワインには興味がない」
 祖父が造るワインの香りに魅せられて瞳を輝かせていた少年は、今や世界的に有名な栽培・醸造コンサルタントとなった。その間彼はひたすら自分が信じたことだけをして生きてきた。ニューワールド・スタイルの外国品種ワインがシチリアを席巻し、誰もがエトナに振り向かなかった時代も、彼はひたすらエトナを信じてきた。誰もネーロ・ダヴォラに注目しなかった時代に、彼はパキーノの最高の畑をグルフィに紹介した。今ようやく時代がサルヴォが30年間してきたことの価値に気付き始めたが、彼はそっけない。「みんながぼくに注目して、評価してくれることは嬉しいが、ぼくは自分が信じる道を歩んでいくだけだ」。 サルヴォが歩んでいくのはどの道なのか、誰もが注目している。

 

 

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